吉松章のブログ

つまらなきこの世の中をおもしろく。日々の思考を書き連ねて。

「成功ジャンキー」より「失敗ジャンキー」になっていたい。「成功哲学」不要論。

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 「成功ジャンキー」より「失敗ジャンキー」になっていたい。「成功哲学不要論

成功哲学」「必ずうまくいく○○」「できる人はやっている」みたいな言葉が並び、踊っている。

 

書店に行くと、自己啓発本等のタイトルに大体そんな文言が載っている。ネットのノウハウとか。

 

あなた(著者)にとって成功でも、他人から見たら失敗かもしれないし、自分で苦労して自分なりの方法論を編み出してやってみた(成功しても失敗しても)ほうが、豊かな気がする。

 

 先日初めて、私は、沖縄にほぼノープランで行ったのだが、楽しかった。

行ったことがなかったので、最初はガイドブックを見ながらだったが、別に何をどうこうする旅ではなかったので、途中からガイドブックは見なくなった。道がわからなくなれば、人に聞いたり、町の案内を見たりして、探索そのものを楽しんでみた。

 

バスでの移動が主だったが、バスが時刻表通り来ない(道路事情というより、県民性?)ので、待合室や停留所のベンチで一緒に待っている人と話したり。

 

効率は悪いのかもしれないが、自分自身で、行く道や過ごす時間を作っている感じがして、面白い。

 

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風が気持ちよくて、海が抜群に綺麗で、地元の人達はみんな優しかった。(たまたまかもしれないけど。なんかもう優しいオーラがみんな普通に出ちゃってる。ガイドブックには人となりまでは載ってない。)

 

若造の私を気の毒に思ったのか、ソーキそば屋のおばちゃんは、ジューシー(炊き込みごはん)をサービスしてくれ、

初乗り500円という昭和価格のタクシー運転手さんは、家に帰るついでだから~と一時間近くの距離を2000円にまけてくれた。(二時間かけて、夕方五時過ぎに平和記念公園に行ったら施設が閉まっていて、土砂降りの雨の中、途方に暮れていたら、この運転手さんが助けてくれたのである。)

 

安宿に泊まった時、宿の主人と一緒に朝ごはんを2時間かけて食べた。

(ふーちばー(ヨモギ)の味噌汁がうまかった!)

食べながら、飲みながら、お茶を飲んで。話をして。

 

やんばる(沖縄本島北部。)のほうに行った際は、宿を取っていなかったので、野宿。

闇の中で、鳥だかなんかの甲高い声や、ゴソゴソと森の中から聞こえる音に恐怖し、うるさい蚊とも戦い、時間も分からず(腕時計はなく、携帯の電池も切れていた)、突然のスコールのような雨に、東南アジアか?とか思いながら、一晩を公園の一角にあった東屋で過ごした。

 

熟睡こそできなかったが、すがすがしい気持ちとともに、朝日を迎えた。

 

離島(久高島)に行った際は、天気が良かったので、昼は海を、夜は星空をずっと眺めていた。

 

 

 事前にどこに行って、ここの宿に泊まるとか決めていたら、この体験はできなかった。

 

こうするとうまくいく、ということではなく、

失敗するかもしれないけど、あなたにしか出来ない(作れない)ことを追及していくことは楽しいと思う。

自分だけの思考や思想、体験を持っている人は素敵だ。

 

「成功」するためだけに、人間は生まれてきたのではない。

 

ハッピーバースデイ。

 

 

 

 

 

 

 

 

「街中で歌いたいと思えば歌えばいい。叫びたいなら叫べばいい。我慢をして自分を殺し続ければ、本当に死ぬことは可能だ。」

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「街中で歌いたいと思えば歌えばいい。叫びたいなら叫べばいい。我慢をして自分を殺し続ければ、本当に死ぬことは可能だ。

 

 街中を歩いているとき、大声で歌いたくなったり、無性に叫びたくなる時がある。皆さんはないだろうか? 私はしょっちゅうある。最近のお気に入りは、「くそったれの世界」。

 

そんなことをやったら変なやつに思われるからやらない、と思うのが正常だ、と思うなら、もしかしたらそれは異常なのかもしれない。

 

 私は縁あって、いわゆる知的障害のある人と接する機会があった。

一緒に話をしていても、目の焦点が合っているのかあっていないのかよくわからなかったり、

奇声を発し、一つのことにこだわって、その場にそぐわないので注意してもやめなかったりする。

 

世間的に言うところ、空気が読めない、コミュニケーションが取れない、と規定されるわけだが、注視してよく見て聞いてみると、それは別に異常でもなんでもないことに気づく。

 

焦点が合わないのは、何となく気恥ずかしいということだったり、奇声は嬉しさの表現だったり、こだわりは好きなモノ(ヒト)へのアピールだったり。

一見整合性がつかない行動は、ただの自己表現の一種に過ぎなかった。

他人から見て、詳細な意味まではわからないが、ダイレクトに伝わる表現だった。(言語はわからないが、大きな身振り手振りで伝わってくるアフリカの人とか、異国の音楽みたいに)

 

障害を持っていれば、必然的に自己表現が上手くて素晴らしいとか、そういうことではないけど、彼らの場合は、少なくとも偽ったり、変に他人を気にしたりはしていないようだ。

 

 謎の規制によって、「こうしなさい」「こうするべき」と思い込まされる事柄が世に溢れている。そしてそれを忠実に実行していくと自分という形は歪んでいき、脳や心臓は動いていても、自分の核は、死んでいく。いつの間にか自分がそうなってないだろうか。誰かをそういう状況に追い込んでいないだろうか。

 

私自身、強固な思い込みによって、自分を殺し、死にかけたことがある。

 

漆黒の闇。音のない世界。

 

 

死にたくなかったら、歌いたいときに歌い、叫びたくなったら叫ぶことをお勧めする。少なくとも、その光景を見た私だけでも、それがフツーなんだぜ、死に抗うのが生物として必然、と思ってるからね。

 

ハッピーバースデイ。